第14回:アメリカにおけるコロナ禍のデモ活動の規制

はじめに

 アメリカ合衆国という国は暴動の波の中で生まれたといわれることがある。有名なボストン茶会事件をはじめとして、独立前のアメリカでは、本国政府に対する反発などから、多くの抗議活動が行われていた。これらの抗議活動は、時には暴動に発展することもあり、税関吏が武器を持った民衆に襲撃されることもあった。このように、公権力の権力濫用などに対する怒りを表明するような行為は、常に混乱を引き起こすものであるが、独立後のアメリカはこの点を理解しつつも敢えて集会の自由(ただし「平和的な」集会の自由)を合衆国憲法修正1条の保護の対象とした。

 2020年春頃にはアメリカでも新型コロナウイルスが深刻な問題となり、感染拡大を防ぐために、州レベルおよび連邦レベルにおいて、渡航禁止や外出禁止などのさまざまな対策が講じられ、また多くの州で公の集会などが禁止された。そのような中、2020年5月に黒人(アフリカ系アメリカ人)の男性が警察官に殺害された事件をきっけかに、ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter, 以下、BLMとする)というスローガンのもと、全米各地で抗議活動が行われた。このような抗議活動は多くの人々が密集するために、コロナ禍においては公衆衛生にとって危険な行為であるため、これを規制することも必要となる。

 

BLMと集会の意義

 アメリカでは、公民権運動などの結果、1964年に公民権法が制定され、ホテルやレストランなどにおける人種差別が禁止され、1965年には黒人から選挙権を剥奪することを禁止する法律が制定されるなど、法制度においては、人種差別はほぼ廃止されている。しかし、現在でも黒人の多くは貧しい環境で危険な地域で暮らしており、さまざまな差別にさらされている。これらの差別はしばしば、無意識なものとして日常に組み込まれており、マジョリティは意識的に経験することはない。

 その中で最も深刻な格差拡大がみられるのが、刑事司法である。刑務所への収監率や職務質問に合う確率が黒人は圧倒的に高く、警察や司法に対する不信を長い間抱き続けている。2013年にBLMというスローガンが誕生したきっかけとなった事件でも、陪審員団は、黒人少年を射殺した自警団員を無罪とする評決を下した。2014年にはニューヨークで黒人男性が警察官に殺害される事件や、ミズーリ州ファーガソンで黒人少年が警察官に射殺される事件があったが、両事件で警察官は不起訴となった。

 このように、意図的な差別だけではなく、マジョリティによる無意識の制度化された差別がより大きな問題となっている現代では、これらの無意識的・制度的差別は社会に巧妙に組み込まれており、そもそもマジョリティには見えないまたは見えにくいものとなっている。これを解消することは一層困難となっているため、デモ活動をすることは、マジョリティには見えにくい争点を明らかにするために必要となる。

 確かに略奪や暴力行為などは認められるべきではない。しかし、デモ活動というのは、マイノリティにとっては、多くの人に見過ごされるような争点を気付かせる手段でもあり、その意味でも混乱を引き起こすということは抗議活動にとってはむしろ不可欠の性質である。

 

コロナ禍におけるデモ活動の規制

 BLMなどが示す集会の重要性を考えるならば、一般的には抗議活動などの集会の自由の規制は容易に規制を認めるべきではないといえる。しかし、多くの人が集まるという行為は、公衆衛生にとって危険な行為であるといえるため、どこまで規制ができるのか、規制の合憲性をどのように判断するのかが問題となる。

 一般的に、表現の内容に着目した規制には裁判所による厳格審査が、時・場所・方法といった表現の内容とは関係のない要素に着目した規制については中間審査が行われるべきであるといわれる。これに対して、パンデミックという緊急事態においては、審査基準を緩め、政府の広い裁量を認めるべきであるとの指摘もある。天然痘が流行したために市が予防接種を義務付けたことが問題となった1905年のジェイコブソン判決(Jacobson v. Commonwealth of Massachusetts, 197 U.S. 11, 31 (1905))では、最高裁は、公衆衛生を守るという目的と「真実のあるいは実質的な関連が全くない」規制や、憲法によって保護された権利に対する「全く疑う余地のない明白で明瞭な侵害」は許されないと述べた。

 コロナ禍における集会の自由の規制をめぐる事例においては、これまでのところ、政府に広い裁量を認める裁判例と、比較的厳格な審査を行った裁判例がある。ジェイコブソン判決を先例として広い裁量を認めるか否かが重要な問題となるが、紙幅の関係上、このWeb連載ではこれ以上は触れる余裕がない。

 

おわりに

 デモ活動は多くの人々が密集するために、コロナ禍においては公衆衛生にとって危険な行為であるため、集会を規制することも必要となる。とはいえ、デモ活動の意義を考慮するならば、緊急事態であることを理由に安易に規制を正当化するべきではない。集会の規制が過度な規制となっていないか、代替的な回路が存在するのかなどを慎重に検討するべきである。コロナ禍におけるBLMの抗議活動は、現代社会における集会の自由(「表現の自由」ではない)の意義を改めて示した例といえよう。

(桧垣伸次・福岡大学法学部准教授)

 

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