第0回:連載開始にあたって

はじめに

 WHOが新型コロナウイルス(COVID−19)のパンデミックを宣言してから約半年が経過した。緊急事態宣言後、一時落ち着きを見せていた感染者数は7月以降増加に転じ、不安な日々が続いている。目下、巷の関心は、第2波がいつ来るか(もう来ている?)ということもさることながら、国や自治体はこれにどう対応すべきか、という点にある。本連載がクローアップするのはそこに潜む憲法問題である。

 

新型コロナウイルスと憲法がどう関係するのか

 たとえば、しばしば話題にあがる〈緊急事態宣言を再度発出すべきか否か〉、〈自粛要請か強制か〉といった問題には、いくつもの重要な憲法問題が含まれる。緊急事態宣言が出されると、外出自粛や営業自粛といった要請は――たとえ強制力がなくとも――移動の自由(一般的自由)、営業の自由といった、憲法が保障しているはずの基本的人権に影響を及ぼすだろう。

 臨時の医療施設を開設するための土地使用や医薬品等の特定物資の収用などが、いざとなれば強制的に行われる可能性もあるだろう。そうなれば、基本的人権と衝突することは避けられない。また、リモート国会やリモート裁判といった、従来の統治システムを大きく変えてしまう可能性のある提案が真剣に議論されている。

 このように、新型コロナウイルス対策は、基本的人権や国の統治のあり方にも変化をもたらす可能性がある。しかも、感染者数の増加が止まらない今、より実効的な措置を講じるべく、営業制限などの措置に強制力をもたせてはどうか、という意見が登場するようになり、いっそう憲法問題が色濃く表れるようになってきている。

 新型コロナウイルス対策を検討するためには、まず憲法問題をクリアすることが避けられない。では、これらの憲法問題を考えるにあたって何を素材に、どのような論点を検討していくべきだろうか。本連載ではこうした問題意識をもとに、各国の対応を概観したり個別のトピックを取り上げたりして、憲法問題の考察を試みたい。

 

強制型、放任型、穏健型

 世界では多くの国が緊急事態宣言を出してロックダウンをするなどの強制的な措置をとった(=「強制型」)が、スウェーデンのように放任的アプローチ をとる国もあった(=「放任型」)。また、日本は、自粛ベースの穏健的手法を用いるという独自の手法をとった(=「穏健型」)。この3類型が新型コロナ対策の基本的手法だとした場合、いずれの手法が望ましいだろうか。

 感染対策だけを考えるのであれば、強制型が望ましいだろう。しかし、個人の自由や経済的影響などを考慮すると、強制型が最善策とは断言できない。外出が大幅に制限されたりアプリで常時行動がチェックされたりする生活、さらには営業禁止によって事業破綻に追い込まれてしまっても、感染が収まるまで耐えるべきだろうか。

 かといって放任型では犠牲者が増えることが予想されるし、本当に集団免疫作戦が功を奏するのかはまだわからない。また、穏健型はバランスをとろうと試みるものであるが、場合によっては中途半端な対応で終わってしまうおそれがある。

 こうしてみると、この問題は、〈不自由な生活を甘受して生命を最優先する=安全重視〉か、それとも日本のように〈ほどほどの対策は行うが自由な生活を重視する=自由重視〉か、という論点に集約される。それは、とりもなおさず、自由と安全のバランスをどのようにとるか、という古典的な憲法問題にほかならない。

 いずれが適切かについては今後の事態の推移をにらみながら検討していくことが必要だが、その前提として、各国が具体的にどのような法的対応を行ってきたのかを憲法的観点から分析するという作業が必要不可欠である。とりわけ、強制型を実施した国の法制度および運用を理解する必要がある。というのも、強制型を採用した国であってもあんがい強い制限を出していない場合があるかもしれず、実際の制度・運用の内実を理解しなければ、上記の問いに答えることはできないからである。

 

緊急事態宣言のもつ力とは

 また、当初、多くの国が緊急事態宣言を出したことは記憶に新しい。そして日本も4月に緊急事態宣言を出すに至っている。〈緊急事態宣言〉はその言葉の通り緊急時であることを示し、平時とは異なる措置が行われることを予告するものである。緊急措置は個人の自由を制約することが少なくないため、その発令も憲法と密接に関わるものである。

 ところが、この緊急事態宣言も国によってその内容が大きく異なる。憲法に緊急事態権限が盛り込まれている国もあれば、明文の規定がない国もある。明文の規定がない場合、それでもなお憲法で認められていると解する国もあれば、憲法で認められているか否かはいったん棚上げしたうえで法律レベルで緊急事態に関する規定を設ける国もある。

 こうした違いは新型コロナウイルスまん延に対する緊急事態宣言の内容を左右する。多くの場合、緊急事態宣言が引き金となり、先に挙げた強制型や穏健型の措置がとられることになるからである。そうであるとすれば、国ごとに緊急事態宣言の具体的内容、法制度、憲法との関係などを考察する必要があろう。

 

具体的にはどのような憲法問題が生じうるのか

 〈強制型か否か〉、〈緊急事態宣言はどのような力をもつのか〉といった問題は、ある意味で「総論的」な憲法問題であるが、新型コロナ対策に伴う個別の「各論的」な憲法問題というものもある。

 外出自粛や営業自粛については冒頭で触れたが、これら以外にもしばしば指摘されているのが、休業要請に伴う補償の問題である。補償の要否につきさまざまな観点から議論が行われているが、政策論や感情論が混在し、憲法問題としての姿がぼやけてしまっているきらいがある。これを憲法問題として捉えるとき、どの論点を取り上げ、それをどのように検討すればよいだろうか。

  また、外国では、コロナ禍で集会が制限される中、デモや礼拝を行う人々がいた。これらは集会の自由や信教の自由という基本的人権に関わる問題である。外国では、この問題をどのように考えているのか。中には裁判になっているケースもあり、興味深い問題を提示している。

 さらには、感染者情報アプリを使用したりスマートフォンのGPS情報を使用したりして感染防止を模索する動きがある。これはプライバシーとの関係で問題になる側面があり、有用だからといって国が勝手に利用したり強制的に導入したりすることについては検討の余地がある。

 また、新型コロナウイルスの対策ではなく、コロナ禍そのものが憲法問題を惹起している場合もある。教育はその一場面である。いうまでもなく、憲法は教育を受ける権利や学問の自由を保障している。休校や短縮授業は生徒の学習のみならず、教育現場にも負担が重くのしかかる。それは大学でも同様であり、学生はキャンパスライフや対面授業を受けられず、教員側もコロナ対応やメディア授業用教材の作成で疲弊している。かかる状況を憲法から考察すると何か見えてくるものがあるだろうか。

 

おわりに

 本連載では、各国の緊急事態宣言や感染対策、そしてコロナ禍およびその対策が惹起する個別の憲法問題について、リレー形式で考察していくことにしたい。連載各回で取り上げる予定の内容は、以下の通りである(順不同。変更可能性あり)。

 

・イタリアの緊急事態宣言およびその他の感染対策

・アメリカの緊急事態宣言およびその他の感染対策

・ドイツの感染対策

・韓国の緊急事態宣言およびその他の感染対策

・教育を受ける権利への影響

・大学の運営・教育の諸問題 

・休業補償の憲法問題

・宗教的活動の制限と信教の自由

・コロナ禍のなかのデモ

・感染者情報とプライバシー

 

 本連載は、どちらかといえば問題提起や状況分析という側面が強いが、新型コロナウイルス対策を考えるうえで重要な材料を提示すると考えている。また、感染症対策は一部を除き憲法学が十分扱ってこなかった分野でもある。本連載が、新型コロナウイルス対策のあり方を考えるうえでその一助となり、また憲法学のさらなる深化につながれば、望外の喜びである。

(大林啓吾・千葉大学教授)

 

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